平和的生存権について
先週、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が始まりました。
このコラムでは、政治的な意見・論評等はできるだけ行わない方針ですが、
とある議論を一つご紹介しようと思います。
私が学部生時代に卒論のテーマにした議論です。
日本国憲法には前文というものがあります。
前文は4つの段落で構成されています。
長いので全ては引用しませんが、問題となる第二段落のみ引用します。
日本国民は、恒久の平和を念願し、
人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、
平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、
われらの安全と生存を保持しようと決意した。
われらは、平和を維持し、
専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、
名誉ある地位を占めたいと思ふ。
われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、
平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
この段落の最後の、
「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利」を、
憲法学では「平和的生存権」と呼んでいます。
この平和的生存権に具体的権利性が認められるか、
すなわち、平和的生存権が侵害された場合に司法的救済が得られるか、
これが私の卒論のテーマでした。
当時、私は川岸令和(のりかず)教授の憲法ゼミに所属しておりましたが、
法律のことをあまりよく分かっておらず、
私の論文はおよそ法律論の体を成していなかったと
今振り返るとつくづく思います。
自分が何を書いているのかといったことさえ、
正しく理解できていたとはとても言えません。
ちなみに、川岸教授といえば、新元号が発表された直後、
取材の依頼が殺到したとかで話題になりました。
私も職場のテレビで新元号の発表を見た瞬間、
笑いを堪えることができませんでした。
ゼミOB・OGのグループLINEは、大盛り上がりでした。
しかも、当時私が勤めていた経産省では、
川岸教授の中高の同級生であり大学も一緒の世耕弘成氏が大臣を務めていました。
世耕元大臣が記者会見で川岸教授との関係を
面白そうに語っていたのをよく覚えています。
ちなみに、新元号の有識者懇談会メンバーの一人でおられた
山中伸弥教授も川岸教授と世耕元大臣と中高の同期だそうです。
山中教授が(きっと笑いを堪えながら)「令和」案を推したのではないでしょうか笑
話が大きく逸れましたが、
平和的生存権に具体的権利性が認められるかという問題に対して、
卒論における私の結論は、一定の場合に認められるというものでした。
詳しくはここでは書きませんが、議論の展開は、大要、次のとおりです。
まず、憲法前文は憲法の一部なのか。
これが憲法前文の法規範性という論点です。
この点に関しては、これを否定する見解は少数であり、
通説はこれを肯定します。
理由はよく覚えていません・・・。
次に、憲法前文が憲法の一部だとしても、
裁判所の判決によって執行することのできる法規範なのか。
これが憲法前文の裁判規範性という論点です。
通説はこれを否定的に解しますが、私は肯定しました。
通説の主な論拠は、憲法前文の内容が抽象的であるという点にありましたが、
内容が抽象的である規定は憲法の各規定にいくらでもあり(典型的には25条)、
抽象的というだけでは裁判規範性を否定する根拠としては弱い上、
憲法前文の内容はそもそも十分具体的である、と論じた記憶があります。
憲法前文に裁判規範性が認められるとしても、
平和的生存権が侵害された場合に司法的救済が得られるか。
これが平和的生存権の具体的権利性という論点です。
私がこの論点を卒論のテーマに選んだのは、
丁度私が学部4年生の年度に、とある判決が出たことがきっかけでした。
名古屋高裁平成20年4月17日判決です。
この事件では、イラク特措法に基づく自衛隊のイラク派遣により
原告らの平和的生存権が侵害されたとして、
自衛隊のイラク派遣の違憲確認及び差止め並びに国家賠償が請求されたのに対し、
結論としていずれの請求も棄却又は却下されましたが、
傍論ではあるものの理由中の判断において、
一定の場合には平和的生存権の具体的権利性が認められると判じられました。
内容としては原告ら有利であるものの国が勝訴したため国の上告が封じられたことや、
田母神俊雄元航空幕僚長が「そんなの関係ねえ」とコメントしたこと等が
注目を浴びました
(「そんなの関係ねえ」というのは、当時流行っていた小島よしおのギャグです)。
私は、平和的生存権の具体的権利性について、
当時はよく分からずに、名古屋高裁判決を引用するのみで結論を導いたように思います。
今改めて名古屋高裁判決を読んでみると、
たしかに説得的な論証がされているように思います。
14年前の判決であり、その後の学説や裁判例がどのように展開されていったのか、
全く追えていませんが、
現在でも一定の価値を有する裁判例なのではないかと考えられます。
この判決のうち、よく引用されるのは次の箇所です。
この平和的生存権は,
局面に応じて自由権的,社会権的又は参政権的な態様をもって表れる
複合的な権利ということができ,
裁判所に対してその保護・救済を求め
法的強制措置の発動を請求し得るという意味における
具体的権利性が肯定される場合があるということができる。
例えば,憲法9条に違反する国の行為,
すなわち戦争の遂行,武力の行使等や,戦争の準備行為等によって,
個人の生命,自由が侵害され又は侵害の危機にさらされ,
あるいは,現実的な戦争等による被害や恐怖にさらされるような場合,
また,憲法9条に違反する戦争の遂行等への加担・協力を強制されるような場合には,
平和的生存権の主として自由権的な態様の表れとして,
裁判所に対し当該違憲行為の差止請求や損害賠償請求等の方法により
救済を求めることができる場合があると解することができ,
その限りでは平和的生存権に具体的権利性がある。
以上、平和的生存権に具体的権利性が認められるかという議論をご紹介しました。
しかし、紹介しておきながら言うのもなんですが、
この議論にはあまり実益がないかもしれません。
名古屋高裁判決からしても、平和的生存権の侵害に対する司法的救済は
極めて限定的な場合(極限状態)にしか認められないところ、
そのような極限状態では、もはや裁判所に救済を求めている場合ではないでしょうし、
裁判所にできることはほとんどなさそうです(金をもらっても仕方がないでしょう)。
通説が憲法前文に裁判規範性を認めないのは、
内容が抽象的だからというよりも、
こういったところが本当の理由なのかもしれません。
結局、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する」には、
裁判所をアテにしてはいけないと言わざるを得ないように思います。
そうなると、自分個人が「裁判所」になって自ら執行するしかありません(自力執行)。
そして、自分だけがそうしても平和は達成できませんから、
全ての他人にもそうするよう求めるしかありません。
他人に求める際、武力を用いることはできません(執行にならなくなってしまいます)。
経済制裁は効果的であると言われていますが、
「欠乏」を与えてしまうまでやってしまうと、やはり執行にならなくなりますし、
戦争のきっかけを生じさせてしまいます。
しかも、自分まで経済的ダメージを受けてしまいかねない諸刃の剣です。
となれば、「戦争反対」との声をただ発するしかなさそうです。
しかし、これは実は最も効果的な手段かもしれません。
現に、ただの印象でしかありませんが、
今回の軍事侵攻は、SNS等を通じた反戦論が強く、
政治的にはあまり成功しているように見えません。
ロシア兵の士気もあまり高くないと聞きます。
冒頭でも述べたとおり、政治的な意見・論評等そのものはできるだけ行わない方針です。
もっとも、上記は「戦争反対」という「政治的な意見・論評等」に関する意見・論評等です。
・・・という言い訳を述べて終わりにします。
今回の軍事侵攻の被害に遭われた方には、心よりお見舞い申し上げます。
ここまで読んで下さり、ありがとうございました。
なお、上記はあくまでも私的見解に過ぎず、弁護士としての助言ではありません。