「正しい判定」

パリオリンピックでは選手達の輝かしい活躍に興奮する毎日です。
深夜に思わず大きな声が出てしまいますね(笑)。
閉会も近づき、睡眠不足から解放されそうですが、寂しくもなります。

今回のオリンピックでは、審判の判定の正しさが疑わしい場面がいくつも見られました。
SNS等では「パリ誤審ピック」などと揶揄する投稿も見られます。
私は柔道をやっていなかったので柔道に明るいわけではないのですが、
柔道をやっていた友人に不平を漏らさずにいられないこともありました。

「正しい判定」とは何を指すのでしょうか。

映像で事後的に確認できる事実に基づく判定は、
いわば神の審判に近いものとして誰もが納得し易いものではあるかもしれません。
しかし、それなら審判は機械がやるべきなのでしょうか。
スポーツとは、そういうものではないのではないでしょうか。
どんな環境でもでき、誰でも参加できるものでなければ、スポーツは発展しません。
そうだとすれば、審判はやはり人がやるべきものでしょう。

審判が人である以上、間違えることも当然あるはずです。
そして、判定の正しさについて、審判自身が悩み苦しむこともあるはずです。
ですから、疑わしい判定を下した審判を過度に責めるべきではありません。
そうでなくては、誰も審判をしなくなるでしょう。

結局、審判が正しいものと信じて下した判定が「正しい判定」なのではないでしょうか。

この考え方からしますと、
「マテ」を出しておきながらそれに従わなかった選手を勝利者とする判定は、
正しいものではないことになります。
審判自身が「マテ」を正しいものと信じなかったことになるわけですから。
あの判定だけは、どうしても納得できません。
法律家の方なら、この話を聴いて、
子の連れ去り事案における「違法の助長」論を想起するのではないでしょうか。

色々と考えさせられるオリンピックでした。